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これからの老後生活と今までの経験や思い出などを投稿していきます。

東日本大震災から今日で10年 人生観を変えた出来事・貴重な体験

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2011年3月11日(金)14:46、この時、私は、東北新幹線の福島トンネルの中にいました。

 

この日は、数日前から出張で仙台に行っており、この日の夕方に横浜へ行く仕事があったので、仙台駅発14:26分の新幹線に自由席特急券のみで、指定券無しで飛び乗りました。乗った新幹線は、「はやて号」と「こまち号」が連結された全席指定の新幹線で、こまち号の2号車車両の1座席だけが空いていたので、そこに座り車掌から車内で指定券を買いました。

 

新幹線が走り出して約20分くらい(福島駅を過ぎたあたり)経過した14:46にトンネル内で急激なブレーキ音と激しい揺れ、緊急停車のアナウンスが流れました。ブレーキ音が発生して車両が停止するまで非常に長く感じました。200km以上で走行しているので、停止まで時間がかかるのは当然ですが。

 

しばらくして「大きな地震を感知したので、自動停止装置が作動して緊急停止しました」とアナウンスがあり、大きな地震があったと認識できました。

しかし、この時点では、100年に一度クラスの大地震だとは、夢にも思いませんでした。

 

全車両全て停電状態。トンネル内の非常灯の木漏れ日が車窓から車両に入ってくる程度の明るさです。

こんな大きな地震にも関わらず、トンネルが崩れなかったのは、北海道新幹線開通に伴い、トンネルの補強工事を前年の2010年に行ったのも功を奏したと思います。

ここから翌日の午前10時ごろまで19時間近く、新幹線でトンネルに閉じ込められた状態が続きます。

 

電気が来ていないため、トイレが流せず、車掌やスタッフが手分けしてトイレ掃除を行っていましたが、それでもトイレは長蛇の列。

このダイヤは「はやて号」と「こまち号」連結なので、通路は連結部分で閉ざされているため、お互いに行き来ができない為、トイレの少ない「こまち号」の乗客が困り果てていました。

 

緊急停止から5時間くらい経過した段階でとったJR東日本の神対応には、驚かされました。

まだ、余震も激しい中、トンネル内という悪条件にも関わらず、車両から乗客が外へ出てお互いの車両のトイレを利用できるようにしたのです。

この処置はトイレの問題もありますが、長時間同じ姿勢でパニックの中、じっとしている乗客への配慮だと思いました。

安全第一を誇る鉄道会社がここまで出来るとは!

お陰で外に出て(トンネル内ですが)少し身体を動かせ、リラックス出来ました。また、普段では絶対に見ることの出来ない新幹線のトンネル内と車両の連結部分などを見ることが出来ました。

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「はやて号」「こまち号」の連結部分(福島トンネル内)

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福島トンネル内 iPhone3Gで撮影のため、ピンボケ

それともう一つ、

この頃、私は禁煙をして6ヶ月経過していました。外へ出た人の中で、親切にもタバコを勧めてくれる私にとってはありがた迷惑な人に出会いました。全くの見ず知らずの人です。精神的に落ち着かない私は、その勧めに乗ってしまい、タバコをもらってしまい、6ヶ月の禁煙生活が水の泡と化しました。

このような非常事態時は、人間は、連帯感が強まることを感じました。

 

携帯電話のバッテリーは残り少なくなり、持参した水も少なくなっていきます。同じ車両に赤ちゃんを抱えるお母さんがいました。赤ちゃんがこんな状況ですから泣き止みません。隣に座っている若者が、赤ちゃんの泣き声に反応し、文句を言っています。私は、その青年に「赤ちゃんが泣くのが商売で、このパニックの中、泣かなくなったら、その方が心配だ」と諭しました。この青年も精神的にこの赤ちゃん以上にパニックになっていたのかもしれません。

このお母さんは、ミルクをあげたかっていましたが、水が無いようです。自分のカバンの中を調べたらミネラルウォーターが1本ありました。そのミネラルウォーターをお母さんに渡しました。

 

それから夜になり、一向に先の見えない時間が過ぎました。すると「朝になると福島側から食料と水が届けられますので、それまでお待ち下さい。」社内アナウンスが流れました。

翌朝になり、JR職員がトロッコのような物に乗って荷物を運んできました。

「先頭車両で支給するので取りに来て下さい。」とアナウンスが流れました。

私は「こまち号」の2号車(先頭車両はグリーン車)に乗っていたので、前の車両で食料を配給する様子を見ていました。

誰一人として食料(おにぎりとサンド)・水を大量に抱え込んで持っていく人はいませんでした。このパニックの中でも他人のことを考える日本人の凄さを改めて思いました。

 

翌朝午前9時ごろ、「輸送バスを用意したので、仙台方面と東京方面に分かれて運行されます。トンネル内の整備用通路を開放するので、しばらくお待ち下さい。」とのアナウンスがありました。それから1時間ほどで、車両ごとに順番でトンネルの中を歩いて地上に出ました。

その際も、トンネル内の誘導を行っているJRの社業員が乗客一人一人にお詫びの言葉をかけていました。

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緊急停車から18時間後、福島トンネル内から地上へ移動開始

 

地上に出るとそこにはバスが用意されており、福島から大宮まで、輸送が始まりました。高速は使えないため、一般道・4号線をひたすら南下します。途中、トイレ休憩で寄ったコンビニで新聞を見て初めて今回の大地震の全容が理解できました。大津波が発生したこと、マグニチュード9、震源地は三陸沖など。この時点では福島原発のことは知るよしもありませんでした。

 

結局、大宮に到着したのは、福島でバスに乗ってから11時間経過した午後9時ごろで、幸い京浜東北線が動いていたため、東京駅まで行って新幹線で、その日に帰宅出来ました。

 

今回の件で、感じたことは、

1)JR東日本の神対応

2)日本人の非常時の冷静さと高い道徳意識

3)パニック時の人間の連帯感

4)残りの人生は、おまけのようなもの。人生観の変化。

 

でも、これだけの大きな災害で社員や知り合いなど身近では、被害者が出なかったことは幸いでした。

 

無事自宅に帰宅してから、2日後の3月14日(月)には、車で再度、仙台の支店事務所に支援物資を積んで被災地にUターン。

この時は車で神奈川から仙台まで15時間かかりました。その後も1ヶ月に3度ほどのペースで、東北に行きましたが、石巻・東松島など今までとは全く異なる風景に変わっていました。

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地震発生から1ヶ月後の東松島

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地震発生から1ヶ月後の東松島

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地震発生から2ヶ月後の仙台駅

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地震発生から3ヶ月後の航空自衛隊 松島基地

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地震発生から6ヶ月後の石巻

 

この震災で分かったことは、我々、日本人の底力と絆だったように思います。

 

10年が経過して、そんな日本に生まれて本当に幸せだと痛感しています。

 

この震災により、被害に遭われた多くの方には、心より追悼申し上げます。